50th Anniversary
1969年、22歳。僕は会社をつくった。
東京の下町、本所吾妻橋にある小さなアパートで家内とたった二人でスタートしたジョイマーク・デザイン。この社名には、僕がつくった服、僕のデザインやマークを皆に楽しんでもらいたいという想いが込められている。
最初の仕事は学生時代に描いたサソリのイラストをプリントしたエプロン作りだった。
出来上がったエプロンをモンキー(バイク)で三峰メンズショップに持込み、初めてそれが店先に並んだのを見た時の喜びは、今でも僕の心に鮮明に生き続けている。ただただ嬉しかった。
売れたお金で今度は折りたたみのイスを作り、ロゴマークをプリントしたキャンバス地を貼って卸したり、シーチングでパジャマを作ったり・・・僕たち二人は時間を惜しまず無我夢中で働いた。
企画、プリント、配達・・・なんだってやった。もちろんうまくいくことばかりではなかったしケンカだってした。悔しい思いもたくさんした。でも・・・毎日が楽しかった。
僕には夢があった。いや、夢しかなかった。
いつの日か僕がつくったブランドの店を持つ、僕が作った服を憧れの加山雄三さんに着てもらうという夢が。それからも僕はわき見をする暇なんかなかった。
1977年、僕は渋谷ファイアー通りにあるビルの2階で最初の夢を実現する。
『サンデービーチ』の誕生だ。
まだインターネットがない時代、大好きなハワイやサーフカルチャーを僕なりに表現したこの店はすべてが手作りで我流だった。そこでも僕は遊びに立ち寄る学生達とコーラを飲みながらさらなる夢を語っていた。
「今度は海とトラッドをコンセプトにしたブランドで店をつくりたい。
イメージは東海岸のリゾートにある白いフレームの店なんだ」と。
1979年、ついに僕はその夢を実現する時がきた。
人生のターニングポイントとなった『ボートハウス』の誕生だ。
オープン後、毎日が順風満帆だったわけではない。
オープン当初は売上が0円の日も珍しくはなかった。
でも僕には自信があった。
恩師であるVAN創設者石津謙介氏から学んだトラッドの精神に大好きな海のエッセンスを取り入れた『ブルートラディショナル』というコンセプトでつくり上げる最高のトレーナーを信じていた。
そんな僕を応援してくれたのが、雑誌『ポパイ』や『メンズクラブ』の編集者になっていた当時サンデービーチで僕の夢を聞いてくれていた学生達だった。彼らが記事で紹介してくれたこともあり『ボートハウス』は瞬く間にメジャーになっていった。
こだわるが故に生産が間に合わなくなっても、僕は妥協せずに良い品質、丁寧なモノづくりをとことん貫いた。
後にトレーナーを買うための3000人を超える長蛇の列、それを報道するテレビ取材、毎日のように入ってくる新聞、雑誌のインタビューなど、人気がヒートアップしたボートハウスのトレーナーは社会現象にまでなっていた。
加山雄三さんが映画の中で着てくれたのもこの頃だ。
世間には商売の成功者として映っていたかもしれない。でも僕は自分が思っていた以上の急激な成長に戸惑いと不安を感じ始めていた。何よりもモノづくりに専念出来ない苛立ちからスランプにも陥り、3ヶ月ほど海で過ごしたこともあった。
そんな時、『夢を持ち、夢を語り、夢を実現する』という原点に戻り生まれたのが『キャプテンサンタ』だ。
1985年のことである。
ウォルトディズニーがミッキーマウスに夢を託し表現するように、僕はキャプテンサンタを僕の分身として世に送り出した。誰からも愛されるサンタクロースのキャラクターは、程なくしてみんなに親しまれていった。僕のライフスタイルをそのままに本当につくりたいモノだけを楽しんでつくっていった。するとキャプテンサンタが僕の夢を次々と叶えていってくれたのだ。
好きなことだけをしてビジネスにつなげるのは難しい。でも僕にはそうさせてくれるクルーがいた。仲間がいた。そして支えてくれる家族がいた。
四畳半の小さなアパートから出発したジョイマーク・デザイン。僕は夢だけを胸に進み続けてきた。きっとそれは間違っていなかったと思う。
あれから50年。 いま僕の船『ジョイマーク・デザイン号』には多くのクルーが乗っている。みんなが夢を持ち、僕と一緒に明日に向かって進んでいる。そして、僕は22歳の青年であったあの日と変わることなく、今も心を弾ませながらみんなと夢を語りあっている。
僕たちの海は夢とともにどこまでも遠く広がっているから・・・・。
CAPTAIN 下山好誼